というわけでご無沙汰してます。直樹です。
久々の更新でなにを書くのか? 今回のテーマは表題の通り、ヒヅメ坂の子供達という小説についてです。
『ヒヅメ坂の子供達』閉鎖的な集落に住む少年、来に何の理由も兆候もなく強い恐怖感が起こり、外に出られなくなった。閉じこもり恐怖する間に親しい人や外界に奇妙に変化していく。クトゥルー神話をモチーフとした青春サスペンスホラー。 https://t.co/6EBdTE4yc0
— 館山緑@granat (@granat_san) 2019年3月14日
……すまない。自作ゲームとはなんの関係もないんだ。でも、自分のブログなんだしなに書いてもいいよね。
で、この小説だけどざっくり言うとクトゥルフ青春ホラーだ。ここまでブログを読みに来る人なら、クトゥルフがなにかなんて野暮な説明は不要だろう。
そしてご存知の通り、クトゥルフ物と学生探索者の話は親和性が高い。公式サプリメントで学生探索者が作られることからも、それが窺えよう。そして本作は、薄暗い青春作品を公言する館山緑氏の最新作だ。何気に私はファンでもある。元から、クトゥルフめいた雰囲気を漂わせる(と勝手に思ってる)作風が好きだったのに、今回はクトゥルフものであると公式に認めている作品だ。読まない理由がない。
で、読んだ結果、私は見事に打ちのめされた。これほどの作品が世に埋もれてしまうのは人類史にとっての大いなる損失だ。ツイッターでこれでもかってくらいにダイレクトマーケティングしたい。
しかし、作品の性質上どうやってもネタバレになってしまうためにそれができない。語りたいのに語れないジレンマ。絶望した私はやがて一つの結論に達した。
そうだ、ブログに書こう。
前置きが長くなったが、そんなわけでここに語っていく。ちなみにがっつりネタバレするから、そこは注意してもらいたい。
まずはあらすじから語っていこう。
主人公の
短いやり取りでもお互いが信頼しあっているのがわかる。まさに親友同士の間柄なんだなと。ただし、
で、なんやかんやあって
さて、住んでる場所が怖いのになぜ家の中に引きこもっているのか?土地を離れりゃいいじゃんと思うかもしれない。
が、主人公は中学生。一人で家を出て生活できるわけもない。明確な理由もないのに引っ越しも無理だ。それでも近々行われるというヒヅメ祭りまでの数日間は近郊にあるホテル住まいを決行するわけだが。
排他的な土地、ヒヅメ祭りという古い因習。もうこの時点で嫌な予感しかしないな!
それと、主人公が家の中なら平気(もっと厳密には自室の中なら平気)という感覚はよく理解できる。自宅や自室は、言ってみれば自分のパーソナルスペース、安全領域なわけだ。恐ろしい目にあっても自室に逃げ帰れば大丈夫、そう感じることは多々あるだろう。
それこそ屋敷を殺人鬼が徘徊してたとしても、「こんなところにいられるか!俺は部屋に帰らせてもらう!!」と宣言するくらいには安全なのだ。
逆に言えば、その安全領域である部屋に押し入られた時の恐怖は比ではない。ホラー展開で自室に閉じこもった主人公を、ドアを破って追い詰めようとする怪物が如何に恐ろしい存在として描かれているかは想像できるだろう。
主人公は、土地が怖いなら土地に帰らなきゃいいという超合理的な解決策を見つけつつ、生まれ育った地元がなぜ怖いのか、その理由も探り始める。そこで協力者となってくれるのが、前述の夕日子だ。
彼女は主人公よりもずっと早く、土地や住人たちへの恐怖と不信感を抱いていた。そのために幼なじみとも距離を置いていたのだ。当時12,3歳だった女の子がたった一人で恐怖心と戦っていたのだ。とんでもないメンタルの持ち主である。もっとも、SAN値的には割とギリギリだったみたいだけど。
さて、物語が進んでいくと主人公と幼なじみ全員の誕生日が同じ、それもヒヅメ祭りの日だったことがシレッと語られる。さらには
クトゥルフ神話において蹄を持つもの、子を産み落とすものといえばシュブ=ニグラスしかいない。見え隠れする邪神の気配に私は愕然としたものだ。
ちなみにこのシュブ=ニグラス、本編では二エゴと呼ばれる堕とし仔を放牧させたり自身も女性の姿を象ってヒヅメ坂を散策してたりと割と自由である。なんでも作中の時期は何年かに一度のヒヅメ様(シュブ=ニグラス)が顕現する時期らしく、そのため本人もハイになってたんだと思う。邪神のテンションが高いと碌なことにならない。まぁ寝起きでテンション低い時のクトゥルフもヤバいけど。
さあ駆け足でいこう。信じていた幼なじみや周りの大人たちが、邪神の信奉者であると気付いてしまった来たち。彼らにとっては神に仕えることは当たり前で、自分たちが神の輪廻で偶々生かされているんだということに、なんの疑問も感じていないことへショックを受ける。
ではなぜ、来と夕日子は別なのか? 二人も御子であり邪神の影響を最も色濃く受け継いでいそうなのにだ。私が思うに、これは二人の出生に関わってくる。平たく言えば、二人はヒヅメ坂の他所の血が濃いためだと考えている。
他の三人はヒヅメ坂の地で生まれ育った親(両親ではない)から血を受け継いでいる。
……いや、はっきり言おう。三人はヒヅメ坂の住人とシュブ=ニグラスとの間に生まれた混血児だ。そりゃ影響も半端ないし、住人たちが御子と呼んでありがたがる気持ちもわかる。なにせ神の血を受け継いでるのだから。
一方で来と夕日子は、元々外から来た探索者二人が、哀れにもヒヅメ坂の因習と邪神の誘惑に抗いきれずおぞましくも絶望的な最期を遂げた後でシュブ=ニグラスによって産み落とされた混血児たちだった。来に至っては完全な生まれ変わりである。生前の記憶をなくし、なんの疑いもなく日常を送っていただろう来がこの事実に辿り着いた時の絶望感は、読んでいていてヒシヒシと伝わってきた。
ベースが他所の血であったゆえか、はたまた生前の記憶が無意識に警告していたのか? 二人は時期こそ違えどヒヅメ坂ヤバいという感覚を理解して共有していく。ヒヅメ坂の内と外からそれぞれこの土地の真相を探ろうとする探索姿勢は大いに胸を躍らせた。
しかし、あぁ、なんということだ。
彼らもまた混血児。他の幼なじみ三人が次々と血に覚醒していくように、来たちの精神も徐々に未知なる存在へ同化し始めていくのだ。
そして祭り当日の結末。そこにあったのはあまりに哀しく絶望的なまでの優しい救済だった。まさに神の所業としか言えない。
来があの決断をしたことに対して誰が非難できようか? 彼は人ならざるものとして幸せに生きるのではなく、人として絶望と哀しみを抱えて去ったのだ。
神のいない地で、来はナニに祈りを捧げたのか? 彼の祈りはナニに届くのか? あの結末は哀しくて、そしてどこか美しくもあった。
読み終わった後、少しの間天を仰いで放心してしまっていた。それほどのめり込んだ作品だった。
どうかこの作品が、もっと世に知れ渡って欲しい。
そして願わくば、来の祈りが海の底で眠る別の神に届かないことを。
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